丸木美術館


原爆の図丸木美術館は、画家の丸木位里・丸木俊夫妻が、共同制作《原爆の図》を、誰でもいつでもここにさえ来れば見ることができるようにという思いを込めて建てた美術館です。
丸木夫妻は、広島に投下された原子爆弾の様子をいち早く目撃し、代表作となる《原爆の図》をはじめ、 戦争や公害など、人間が人間を傷つけ破壊することの愚かさを生涯かけて描き続けました。
この美術館では、そうした丸木夫妻の生命への思いを受け継ぎながら、芸術家としての二人の活動を紹介しています。
少年少女
救出
母子像
灯篭流し
からす

丸木位里さんと俊さんご夫妻が、東京から東松山市・都幾川沿いに丸木美術館を建てた理由は、都幾川の風景が位里さんの出身地・広島を流れる太田川に似ており故郷に思いを馳せたからといわれています。美術館建設当初は、平家の2部屋からなる美術館でした。
俊さんは北海道出身の洋画家。お二人の出会いは、上京して知合い、太平洋戦争開戦時の1941年に結婚。池袋のアトリエで、位里さんは水墨画、俊さんは油画が専門でしたが。当時は、戦争の絵を描くと売れましたが、丸木夫妻は、芸術家として、自由な発想での絵画を標榜するあまり、困窮生活を強いられます。戦時中は浦和に疎開しますが、1945年8月6日に広島に新型爆弾が投下されます。位里さんの実家は爆心地から2.5km離れた安佐北区。
位里さんは新型爆弾(原子爆弾)の投下から3日後の9日に広島に帰郷、俊さんは1週間後に訪れます。丸木夫妻は、広島の惨状を目の当たりにして1ヶ月ほど広島に留まり救援活動に尽力を尽くしますが、残留放射能により被曝してしまいます(ご夫妻は被曝手帳を持っています)。ご夫妻は、明るい絵を描こうとしますが絵筆が動きません。新型爆弾投下による惨状が脳裏から離れません。終戦後はGHQが統治しており、全ての出版物や発行本などに対する検閲が厳しく、新型爆弾投下による被災状況や被災者状況を把握することが難しく、眼にすることすらできません。このような状況で絵画については検閲がさほど厳しくなく、丸木夫妻は5年後に夫婦共同で第1作目の“ゆうれい”を制作します。この作品は、新型爆弾による被災者が焼け爛れた両手を下げて歩くと痛いので、両手を心臓の高さまで上げて歩く姿が、まるで幽霊のようだとのことから作品名をつけたようです。
その年、1950年には朝鮮戦争が没発します。朝鮮半島にも原子爆弾が落とされるのか?新たな戦時下に見舞われるのか?との危惧から、この先の未来に対する警鐘も意図して“原爆の図”を制作したのでと思われます。
原爆の絵は丸木夫妻以外の画家も描いていますが、その絵の多くはキノコ雲や原爆ドームや焼け跡を描いていますが、丸木夫妻の原爆の図は人間の肉体のみであり、背景は描かれていません。猫や動物も描かれていますが、“いのち”を描いた絵画といえます。
丸木夫妻は、3部作を描いたのち原爆の図を掛軸状にして背負って北海道から九州までの全国を巡ります。さらに、世界20カ国以上を巡回することにより、多くの人々に原爆の恐ろしさを伝え、丸木夫妻が知れるようになります。展示会中にGHQが踏み込んできて、危険を察知した時に原爆の図を巻いて逃げられるからです。
原爆の図は広島の被害以外にも、第五福竜丸が水爆実験で被曝した絵や、原水爆反対署名運動の絵、さらには被曝した米国人や朝鮮の人達の絵も描いています。
丸木夫妻は、世界中を廻って感じたことは自分達の被害だけを考えていることに疑問を抱きます。どんな戦争でもお互いに傷つけ合う。一見被災した日本の被害の象徴の中にも、戦争の加害性も潜んでいるのではないか。一方的に被害者、加害者の線引きをして良いのか、自分のいたみには敏感になりがちだが、被害者のいたみだけでなく、他者の被害を想像することが必要だと丸木夫妻は考えます。つまり、命に線を引かない。国家、人種、言葉などの違いに線引きをしないことが重要だと考えます。戦争のない世であっても、常に苦しい立場の側に立って世界を見ていくことを絵画を通して実践していきました。