上沼・下沼は、それぞれ“男沼・女沼”とも呼ばれています。 どちらの沼も灌漑用の溜池として活用されていました。 “男沼・女沼”といわれる名前の由来は、群雄割拠の戦国時代 に絡む哀話に基づいているといわれています。

永 12 年(1569 年)、そのころ松山城は小田原北条家に仕 えておりました。小田原城主・北条氏政は武田信玄軍に備え るため、松山城主・上田朝直に対して援軍を要請します。

上田朝直は、松山城下の町人衆にも従軍するように下知します。 松山城下の下沼周辺に住んでいた与四郎にも命が下ります。 与四郎は、新婚間もない新妻と病身の母親と住んでいました。 与四郎は、城主の命に逆らえず、やむなく上田朝直軍の兵と共に 小田原を目指しました。 上田朝直軍は、小田原に着くや北条軍の先鋒部隊として、相州・ 三増峠で武田軍と激突しました。 史上最強と言われた武田軍と の壮烈な戦で与四郎も手傷を負ってしまいました。

心根が優しく気弱な与四郎は、激しい戦さの恐怖で分別もなくなり、こともあろうに自陣から離脱して 一人ふるさと松山に逃げ戻ってきました。

懐かしい我が家に辿り着いてみても、与四郎の新妻も病身の 母の姿も見当たりません。与四郎は仏壇を覗くと、真新しい小さな白木の位牌が2つ祀られていました。 “これはどうしたことか”と与四郎は、位牌を抱えて近くに住む親戚の家を訪ねます。叔父さんが言うに は “小田原での戦況が松山にも伝わり、三増峠の戦いで与四郎も非業の最期を遂げた“ との連絡があっ たとのこと。 与四郎の訃報を聞いた病身の母は悲しみのあまり息絶え、新妻も母を追って下沼に身を投 げてしまったとのこと。叔父さんからこのような思いもよらぬ話を聞いた与四郎は、このままでは生き 延びられない。きっと追っ手に捕らえられて、自陣を抜け出した罪で殺されると思いました。 失望の淵に立たされた与四郎は、“思い余って 2 つの位牌を胸に抱いて上沼に身を投げてしまった”と伝え られています。このような哀話により、上沼→男沼、下沼→女沼と呼ぶようになったとのことです。 今日では、男沼⇔妻沼を結ぶ夢小路を恋人同士で歩くと が叶うと言われています。