箭弓稲荷神社の由来

社名の由来については、武門守護神としての伝承があります。 平安時代の中期・長元元年(1028年) に下総国の国主・平忠常が朝廷に謀反を企てた平忠常の乱に関係します。忠常は、安房・上総・下総の三か国を制圧した後、大軍で武蔵国に押し寄せてきます。朝廷は、これを制圧すべく清和源氏の棟梁・多田満仲の子で、甲斐国守を務める源頼信 (968-1048)に忠常追討の任を命じます。頼信は当地野久が原に本陣を張ります。しかし、多勢に無勢、武勇の誉れ高き頼信も心を悩ませます。と、その時古い祠を見つけます。この古い祠はこの野久が原に鎮座する“野久稲荷大明神”で、本地は“十一面観世音”が祀られていることを知ります。野久は即ち箭弓(弓矢)を指すもの、 つまりそれは武門の守護神であると頼信は確信し、戦勝祈願と共に太刀一振および駿馬一頭を奉納、一晩中祈願したといわれます。すると、明け方に白雲がにわかに立ち起り、白羽の矢(箭) の形になり、一陣の風に送られ、忠常陣を張った川越方向に流れていきます。(一説には白狐に乗った神が弓矢を授けた夢を見た) これを見た頼信は、神様のお告げと悟り、兵を率いて敵陣に攻め込みます。不意の攻撃で忠常の陣は乱れ、三日三晩にわたる激戦の末、頼信軍が勝利します。頼信は、神の加護に報いるため、野久稲荷大明神に戦勝報告に帰陣。そして、社殿の建立を図り、この機会に“箭弓稲荷大明神”と社名を変更し讃称したと伝わっています。
(注:箭=矢のことです)