根岸友山/根岸武香の軌跡

根岸家の歴史

根岸家は、同家に残る「家譜」や「系図」によれば、中世に活躍した武蔵武士熊谷次郎直実の末裔といわれています。 戦国時代には、はじめ小田原北条氏に仕え、後に松山城主上田氏の家臣として、甲山付近を領有したと伝えます。

根岸家は、享保元年(1716)に甲山村の名主に就任して以来、村内の治世に努めると共に、宝暦4(1754)以降には、箕輪村の名主も兼帯して豪農としての地位を確立しました。また、安永8(1779) には、 隣村の玉作河岸の権利を譲り受け、荒川を通じた舟運業も積極的に行っていました。

友山と村人

名主としての友山:

根岸家は江戸時代の中期以降、甲山村や箕輪村の名主を代々勤めました。根岸家は、年貢の保管場所がなかった甲山村に敷地を提供して郷蔵を建て、飢僅に備え村人から米を集めて蓄えました。

また延享4(1747) には、 鐘のない甲山村のために地蔵堂へ鐘を寄進したりもしました。江戸時代後期には荒川の氾濫で大里郡の大囲堤(輪中堤防)がたびたび決壊し、堤の修復費用をめぐり村々が対立しました。天保10(1839) 堤の修復に反対の村を訴えるため9ヵ村の数百人が養笠をまとって甲山村地蔵堂へ集合し、 川越藩へ強訴を試みました。これが「簑負騒動」です。このとき友山は強訴勢を

弁護したため、幕府から江戸追放の処罰を受けました。この事件は、後に友山が倒幕を意識し、長州藩へ接近するきっかけになったと言われています。

三餘堂と振武所

三餘堂は友山が自邸内に設立した私塾です。 「三余」 とは「年の余り、月の余り、日の余り」 のことで、 農事のわずかな余暇をも学問に用いる意味から命名したものと言われています。 塾は農閑を利用した寺子屋と、来遊する学者による学塾の性格を兼ねていました。三徐堂で講義を行った学者には、友山と交流の深かった漢学者の寺門静(1796~1868)や、武州一挨について記した『胃山防戦記』の著者である国学者の安藤野雁(1799~1876) 等がいます。また、友山·武香父子は振武所という道場も自邸内に開設し、近郷の子弟に剣術を教えました。二人とも北辰一刀流の千葉周作(1794~1855) の門人であったことから、 千葉道場から師範が派遣されたり、剣道具の提供を受けたりすることもありました。

草莽(そうもう)の志士友山

根岸友山は、豪農としての資産とその多彩な人脈から尊皇捜夷派の志士との交流が盛んでした。文久3(1863) 2月、友山は尊皇攘夷派の清河八郎らの呼びかけに応じて浪士組に参加し、門人を率いて一番組小頭として上洛します。しかし、

上洛後、清河や友山は尊皇模夷の建白書を学習院に提出し、事の顛末を知った幕府は、浪士組を江戸の警備を目的として東下させ、後に新徴組を発足させます。しかし、これに不満を持った近藤勇ら一部の浪士は京都に残り、市中警備を目的とする新選組となりました。友山は、一時近藤勇らと行動を共にしますが、 後に彼らと思想的に対立して帰郷し、新徴組に参加しました。

武香と政治

友山の次男である武香(1839~1902)は、明治元年(1868)大惣代名主役、同3年新政府の弾正台巡察属に任せぜられて地方行政に関わりました。

以後、同4年浦和県第十四区戸長、同5年入間県第七大区五小区戸長、同6年熊谷県南七大区五小区副区長等を歴任、また同年には熊谷県学区取締となって初期学制の確立に尽力しました。

明治12年に埼玉県会が開設されると、武香は大里郡から県会議員に選出され、初代副議長、次いで翌年には第2代議長に選ばれました。同23年再度議長となり、同27年には貴族院多額納税者議員に選出されています。 政治的には大隈重信を中心とする改進党系に属し、対外硬運動や地租増徴反対運動に関わりました。

武香と考古学

・考古家武香

日本の考古学研究の先駆けとして、明治109月から10月にかけ東京帝国大学のE.S. モース教授は東京都品川区の大森貝塚の発掘調査を行った。この時、武香38歳、すでに好古家として研究心旺盛な武香は、米国人学者よる発掘調査に触発され、その年の11月、大里村玉作の素封家須藤開邦等4人で黒岩横穴墓群の発掘を行いました。

その成果は翌年4月に好古家柏木貨一郎により東京日々新聞へ発表するとヘンリー· シーボルト公使やモース教授をはじめ多くの好古家や文人、学生が黒岩横穴墓群を訪れました。

明治19年、武香は創設まもない東京人類学会に入会すると、古物趣味的な好古家から研究としての考古家への道を歩み出します。そして当時気鋭の考古学者坪井正五郎と出会い、 二人はのちに吉見百穴の発掘調査を手掛けることになります。

吉見百穴で発掘した土器などをE.Sモースが

描いた額が根岸家に掲額されています。

・吉見百穴の保存

明治208月、東京帝国大学大学院生の坪井正五郎は卒業論文の作成のため根岸宅を訪れ、武香とともに吉見百穴を数日間の予定で調査を行ないました。その結果、横穴の数は予想をはるかに超える規模であることが判明したため坪井は急ぎ大学に戻り全面発掘のための援助を求めました。後日帝国大学総長渡辺洪基は坪井の案内で現地を訪れたのち、大学の援助を受ける事ができました。

本格的な発掘調査は6ヶ月間を要し確認された横穴は実に237基を数えました。発掘の成果は、横穴の性格をめぐる論争(所謂穴居説と墓穴説)へと展開し、実証的な研究論争として日本の考古学研究に多大な貢献を果たしました。遺跡の保存に対しては、武香らが宮内省に請願するものの認められず、地主であった武香と大沢藤助により管理事務所を設け保存に務めました。吉見百穴が国の史跡となったのは大正12年、発掘から36年後のことです。

・文化活動への貢献

「新編武蔵風土記稿」は江戸幕府が編纂を手がけ、天保元年(1830) に完成した武蔵1国の地誌です。武香は本書の追加調査を実施し、明治17(1884)に内務省地理局から80冊の出版を実現しました。出版に先立って武香は県内各地の郡長や

有力者の元を訪ね、事業への理解を訴えて回りました。「新編武蔵風土記稿」の出版は、埼玉・東京・神奈川の地方史研究が飛躍的に発展するきっかけとなりました。また武香は、散逸の危機にあった古文書や古美術品を収集して保存につとめ、帝国博物館(現在の東京国立博物館)へ提供して公開し、「古印譜」の出版、古銭図録や古文書の復刻もおこないまし

た。文明開化の世情の中で地道に続けられた武香の文化活動は、いま再評価が求められています。


澤沛民蘇(たくはいみんそ)

中国·旅題の金州城にかかっていたもので、日本軍が日清戦争の時、 戦利品として持ち帰り広島県呉の海軍基地に保管されていたのを武香さんが貴族議員のときに軍から払い下げてもらったものです。


額の云われ:

商人が役人の功績 手柄 功労に対して金を出し合い徳政を称えて寄贈したもの。


拓(タク):土地を広く開拓,干拓,拓殖


沛(ハイ):沛然

雨が盛んに降るさま 

物事が盛んになるさま。


民(ミン): 民衆 人民


蘇(ソ):生き返る よみがえる


注:特別展“根岸友山・武香の軌跡”(2002年2月大里村教育委員会発行)より転載