箭弓稲荷神社ご由緒

(比企郡神社誌より転載)


御鎮座地

埼玉県東松山市箭弓町

旧御社格 _大正十二年県社御昇格


御社名_箭弓稲   

   :

うがのみたまのかみ

(宇迦魂神)

御由緒

当社の御創立は最も古く、その規模の雄大さと、御社殿の壮厳さに於ては関東唯一の稲荷大社と称せられ、創草の当時

は、野久、又は矢久稲荷と称せられ、里人の信仰の的となつていた。

社記に依れば、人皇第六十八代後一条天皇の御宇、長元元年下総国千葉の城主前上総介平忠常謀反を企て、安房上総下総の三ヶ国を切従へ、破竹の如き勢いにて威を八州は震い大軍を起して武蔵国に押出せし時、冷泉院の判官代甲斐守源頼信(多田満仲の御子、頼光朝臣の御舎弟)長元三年の秋忠常追討の倫旨を賜り、武蔵国比企郡松山の里、野久ケ原に本陣を張りて、当社を尊仰し朝敵退治の願書を呈し、太刀一振、俊馬一疋、を奉納せられ一終夜の御祈願ありてその暁、白雲起りて白羽の箭の如く型取りたる雲、一陣の風颯と吹き立ち敵陣の方へ箭を射る如く飛行けば、頼信神明の感応なりと俄に兵を起して敵陣に斬り込めば、忠常の陣中麻の如く乱れて三日三夜追討して潰滅せり。頼信御神威御霊験を感得喜悦して、直ちに見事なる御社殿を再建建立して箭弓弓稲荷大明神と称へ奉れりと記され、爾後御社名を箭弓稲荷と呼称す。

又宝徳三年二月初午に、河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ、文明年中まで年毎の祭礼は太田道濯より執行せられ、松山城主上田 氏、難波田氏も康正年中より代々の領主達の尊信最も厚く後川越八代の城主松平大和守は社地を免除して親筆の献額を奉じて信仰し、松平家代々の城主又崇敬厚く、当社の御分霊を城内又び邸内に奉祭せ られたり、又人皇百九代後水尾院の元和三年松平内膳正家広、徳川将軍家に計り川越喜多院南光坊天海大僧正別当となり、当社の御由来旧記を尋ねて御神徳御霊験を感得せられ当社の御造営に一寺を取立て給ひて福楽寺と称し、別当職を補名せられしことなど記載せられたり。

当社の最も隆盛繁栄を極めたるは特に享保年間にして、庶民の崇敬最も厚く四方遠近、国々の貴殿、当社に心願をこめて参能し、社前市をなし人馬の往来繁く、江戸より熊谷、西上州への人馬継立の地として、又入王子千人同心は常に当社に参詣して日光に参り、当時 の繁昌振りは今以て幾多の古文書に依つて知られ、江戸には「箭弓稲荷江戸講中」と云うものがあり、日本橋小田原町を中心にして江戸市中に及び、講中の参拝引きも切らず桶川、鴻の巣、吹上の宿より道中して之に参り、桶川にはこくや孫兵衛、鴻の巣には伊勢屋半右衛門、箕田には富士屋国松、吹上には大文字屋喜兵衛等の宿亭より当社に参る人々にて賑い今も猶桶川、鴻の巣外各道々に「箭弓いなり道」の道標数多くあるを見ても、当時の隆盛ぶりを偲ぶことが出来る。


武蔵国 比企郡松山

正一位箭弓稲荷大明神略縁起(神仏混滑時代略縁起)

夫倉稲魂神は百殻を播玉ふ故に奉名所にして、此御神は誠に諸人を哀憐の御心深く、蒼生作物は草の片葉までも百の災を穫除玉ふの御誓ひあり、亦日宇賀美多麻神は伊奘諾伊奘冉二柱尊所生神服機殿祝祭三狐神同座神也故名専女神 亦委く日本紀神代巻を拝閲すれば天照大神の神勅にて豊葺原中国有保食神を月夜見尊就候あり其時保食神に対して月読尊の非礼ありしかば天照大神御怒甚く月夜見尊を咎玉いて復天熊人を遺して看玉ふ此折節は早保食神の神功全成就して其土地に稲麦粟稗大豆小豆の種悉く出生牛馬飼馴して農業の助力を見する類ひまて教習はし有養蚕の道得抽絲など凡後年の今の代に国民生命を保寒暑を防ぐ所為までも丹誠せられ在るよしを天照大神の聞召て喜玉ふ事限りなく保食神は万民の盛になるべき基を開発く大功の神霊なりと賞し玉ふ、人皇四十三代元明天皇の御宇和銅四年辛亥二月九日初午に当の日山山城国三峯に保食神と荷田神を合して稲荷と称し祭は殊更神霊の奇端在に依なり是より益保食神稲魂を世上一統に尊崇し五殻成就を祈るに怠慢なし神亦神通広大に在は大日本国中の山林田野に到るまでも垂迹ありて百殻を経営し天下太平万民豊楽の大業を司玉ふ最も尊き神霊なりに当社正一位箭弓稲荷大明神と申奉るは往古人しき垂跡にて霊験感応枚挙進あらず 箭弓の名号の故を記せば頃は人皇六十八代後一条院の御宇長元元年下総国千葉の城主前上総介平忠常謀反を企安房上総下総三ヶ国を切従破竹の如き勢ひにて威を八州に震ひ四万五千余人の大軍を起し武蔵国へ押出せり此節冷泉院の判官代源頼信は甲斐守に被為任甲斐の国府に着玉ひ楽し所忠常追討の倫旨を賜り俄に軍の用意を調へ近郷の兵等を催し玉ふ此頼信朝臣は源家の棟梁多田満仲の御子にて頼光朝臣の御舎弟なりしかば軍略武勇兼備して心賢き大将なれども甲府に下りて間もなく万事心に任せぬ中に平忠常が勢ひ遠近を嵐し猛威盛の時なれば頼信の催促に随ひ寄者僅なり然とて敵は程近き武蔵野へ操出し寺院民家を放火して直に都へ責登録らんと乱妨甚しかりければ猶予約の軍配なりがたく 一族良党近郷の地侍些に五千余人に不過小勢のま>に甲府を立て武蔵国へ入玉ふ忠常は入間郡河肥の地に押出すここにおいて頼信朝臣は比企郡松山に陣を張看使をもつて敵陣を窺はせらるれば前上総介 の軍兵は長元元年より三年以来の戦場に自なる軍の調練元来烈しき関東の気質に備はる武辺の勇惣軍既に五万に及び月の名におふ武蔵野に輝したる星兜尾花に等しき鉾長刀最晃々しき形勢なれば源氏の小勢の不知案内容易追討はなりがたくさすが武門に誉ある頼信朝臣も心を脳し卿猶預し玉へば其手に従ふ兵等も敵の大軍に聴怖し勇男威も怠みて看へたりしが頼信朝臣の在ます本陣の傍に最年経たる洞有頼信是を見そなはして在所の老人を呼出し当社は何の神なりやと問はせ玉県ヘば翁は答て此御宮居は野久稲荷大明神と申て此野に久しき御神にて本地は十一面観世音に在ます由を答しかば頼信朝臣は聞し召て夫は倦倖の事にこそ野久は則箭弓にて弓箭採身に因有殊に十一面観世音は神通の化現なり怖畏軍陣中衆怨悉退散の経説は空しからず適れ神通力の冥助に依て怨敵退散なさしめ玉県へ と朝敵退治の願書を呈し太刀一振俊馬一疋を神前へ奉納せられ一終夜の御祈願有て其暁に軍勢を調へ正し最厳重に進発あれば明行空に自ら雲の景色の白羽語の箭と見ゆるか如く薄麗て一陣の風姻と吹立敵陣の方へ彼雲は箭を射るさまに飛行けば源氏の諸軍は勇立思はず雄詰を上互に心を励せば大将頼信欣然と軍配とりて真先に走出し神力応護の勝軍は此奇端に知らる るぞ進 々と下知あれば官軍一同に勢ひ烈しく心を一致に五千余騎平忠常が屯に押寄唯一戦に敵の大軍を討破り頓て賊党を三日三夜追討し悉く亡 ししかば偏に箭弓の神徳と頼信喜悦不斜社殿を再現建仕玉へり此時より弥々益々神威霊験柄然諸願満足の就中盗賊の難を除福円満の開運を司り玉ひて其御利益を蒙る者日々月々に充満せり然ば宝徳三年二月初午に河肥の左金吾持資主の心願成就の法楽を捧げられ文明年中まで年毎の祭礼をも太田道藩よりして執行せられしとぞ亦松山の城を上田氏難波田氏も康正年中より代々の領主達尊信尤厚かりき抑松山の地は人皇百三代後花園院の御宇康正元年三月関東の管領扇ケ谷の上杉持朝の旗下の老功太田道真の差図によって同じく扇ヶ谷の大将上田左衛門尉築て篭城せしが寛正二年六月下旬前左兵衛佐成氏下総国古河の城より打て出小山宇都宮結城の諸将武蔵の七党是に与し大軍にて責掛りしゆへ暫時開城して上田は鎌倉に備を立たり同年の九月成氏と上杉方と越 ヶ谷野 に戦ひ成氏敗軍なせ しかば関東悉く管領家の下知に従ひ松山の城は以前の如く上田左衛門尉これを守る其後長享元年正月より同二年の夏まで両上杉家不和となり松山に対陣せしが終に山内の上杉敗軍して松山方勝利を得たり是より二年の後延徳元年六月十八日山内上杉顕定と扇谷上杉定正 と再度武州入間郡河越の地に戦ふ此時松山の城より上田新蔵人曽我兵庫助扇谷の加勢として押出すと異本残太平記に記されたりされば上田氏は松山を築立られし以来康正長録寛正文正応仁文明長享延徳明応年中まで四十余年が間箭弓の御社の神徳を蒙りしこと少からず其後永正元年上杉の河越合戦の時より上田氏は鎌倉に在て同じ扇ヶ谷の大将難波田弾正左衛門父子天文年中まで四十余年松山の城を守りて変らず当社の霊験を尊まれけるが天文十四年河越の城に移り松山は二年の間明城となれり天文十六年よりして小田原北条家の幕下上田能登守入道安徳斎松山の城主なりしが十五年を経て永録四年の九月武州岩築の住人太田美濃守三楽斎入道資正越後勢と同意して松山の城を責取上杉憲勝を大将にて二千余人を龍らせ資正は岩築に引上たり 同年の十二月十一日甲州勢と北条方と一致して松山の城を五万五千余人の大軍にて責立しかども要害無双の名城にて太田資正か手配をなし置たる下知なれば寄手の大軍責めあぐみて落し得ず翌年の永録五年甲州の飯富源四郎景仲といふ者和談をとりむすび城主憲勝は北条家に縁を結び都築郡にて三百貫を領し永録五年三月より元の如く上田安徳斎城主となり天正規十八年まで二十九年が間安徳斎の子息上田上総介松山の城主なり如斯城主も度々混雑して関東の兵乱止時なく別て川越松山の地は武蔵国中に屈意の戦場なりしゆへや>ともすれば兵火の為に焼討せられ神社仏閣の尊きも大破衰廃して影も残らぬ土地さへありけり此故に当社まも漸々に衰微して野中の小社員となり近き辺に住庵主の僧が神前に一燈を供ずるを往昔の万円燈に代たり斯て天正十八年神武の神営を江都に開かせ玉ひしより百有余年の星霜に廃亡したる関東の神社仏閣君の御恵に再興して旧地に勝る繁昌となりし事最難有御代なりけり再説当社の中興を尋奉れは今を去事二百二十五年の昔人皇百九代後水尾院の御字元和三年南光坊天海大僧正駿府より下野国へ神輿を守護し趣せ玉ふ御道筋当松山の地を御通行の折節一天俄にかき曇風雨一陣烈しかりければ神輿を庵室に入奉り晴るを待せ玉ふ時しも忽然として威風厳々たる老翁手に弓箭を携へ庵室の庭前を守護する如く現れたり僧正は奇異の思ひにて彼翁に向ひそも老翁は何人にて何故に此所へ来られしぞと問はせ玉へば老翁答て日我は人類にあらず稲魂の神使なり今僧正の警衛し玉ふ御先を掃除して非常を静むる役を勤め当野に久しき住所を全せん事を願ふと告終て忽に影を止ず此時風静りて最朗なる晴天となり ぬ依之天海大僧正は庵主を呼出して神人の告を語り庵に近き当社の旧記を尋ね玉ひ其神霊を尊み社の造営をはからせられ則庵を一寺に取立玉ひ福梁寺といふ寺号を賜りて庵主を別当職に補せらる夫より以来神威年々に盛にして霊験感応響の物に応ずるが如し然ば寛保年中御地頭島田氏の心願成就ありて宮社の修覆あり其後十三世別当発順大志願を発して本社拝殿往古の壮観に勝らん事をはかる然れども大業なるに依て不容易此時は寛政五年のことなりしが神霊の神通にて別当発順へ夢中の示現あり我齢既に二千九百余年に及び結縁の時熟すと告玉ひしが奇なるかな其頃より遠近の貴膨当社の御利益尊き事を知り伝へ心願満足の時を得て招ざるに歩行を運び神徳を蒙る者枚挙がたしこにおいて自然神威光々として朝日の輝くに異ならず此度本社拝殿の修造悉く成就して旧年に勝る御社となりし事全神徳御利益の故に依とはいヘども一つには信者講中の寄進丹誠の致す所なり於弦当社の由来を本縁起の中より略記して普く諸人に告まいらせ其御利益を蒙らせ度神亦人々の崇敬に威徳弥増の感応あらん事愚納が丹心こ にありといふ。


干時天保十一庚子年九月良辰

武蔵国比企郡松山箭弓御社別当

中興開山祐弁ヨリ十五世

法音山多聞院福緊寺竪者法印順性謹誌

................................................................

御社殿構造

天保十四年十月武州比企郡松山町福聚寺順性印の奥書ある「箭弓稲荷社再建立普請諸入用帳」に依れば:

一、本社地之間:

正面壱丈八尺、奥行壱丈七尺弐寸

向拝:壱丈五寸

 ・金参千五十九両弐分也

一、弊殿地之間:

正面壱丈五尺八厘、奥行四間壱尺五寸

 ・金八百八拾参両也

一、拝殿地之間:

正面六間半三寸九分六厘、奥行四間三寸八分八厘

向拝壱丈参尺壱寸二分、正面壱丈五尺八厘

一、金壱千七百四拾六両也

一、外諸建物

 ・金参百四拾七両也


惣高合金 : 六千参拾五両弐分也

又寬保年中御地頭島田弾正の心願成就に依つて宮社の大修覆あり、其後福聚寺十三世の別当堯順大志願を発して、本社

拝殿往古の壮観に勝らんことを願ひて、神夢に依りお上にも具申し、四方の信者とも計りて、寛政五年よリ初めて当社本

殿拝殿の修造悉く成就すとあり、思ふに 寛政より享和、文化、文政、天保にかけて約五十有余年間の長きにわたる当社御社殿の大修造を完成せられしこと、如何に当社の御霊験のあらたかなるかを如実に物語るものなり。


主要建造物:

神楽殿、手水舎、御信者控間、渡廊下、守礼授与所、みくじ 舍、社務所(五十六疊敷)、箭弓記念館(百三十疊敷)


指定文化財:

本殿(東松山市教育委員会

屋根は切妻単層三重垂木の銅葺両側背面の壁面或は妻梁上の破風面悉く彫刻となつてゐる。内部は格天井正面の扉は極彩色花鳥模様で柱には金箔を押し床面は朱塗りの廟造りで豪華絢爛なものである。


境内施設:

一、箭弓記念館

皇太子殿下御生誕記念として建立せられ百三十疊敷の大広間及舞台設備あり。

一、遊園地児童遊園地及テニスコートあり。

一、牡丹園 

約壱千余坪に牡丹壱千余本、池及大庭園あり

一、神苑

約五千坪の神苑に大ふじだな、梅園つゝ

じ等四季の花あり。