小林太一郎氏頌徳碑


小林太一郎氏頌徳碑                    

 従三位勲一等櫻内幸雄篆額

 

小林太一郎氏は明治十二年二月一日武州松山町に生まれ、蔵元・日野屋三代目を継ぎます。日野屋は、祖父作平が安政六年に起業。(父太郎平は川越市笠原、母イヨは熊谷市滝沢出身)太一郎氏の性格・気風は温厚かつ意志強く、毅然として家業に励みます。太一郎氏が十七歳の時、母と別れ、二十三歳の時には父を失います。それでも、太一郎氏は挫折することなく、一家の大黒柱として家業発展のために、清酒<敷島盛>をはじめ、醤油味噌醸造も手掛けます。事業展開は経年広まり、同業者の指導啓発にも積極的に意を注ぎ、常にその先頭に立ち続けます。昭和三年には、自治功労者として町より金盃を贈られ、町民の敬慕信頼は厚く、外柔内剛かつ至誠能力をもって人を動かし、常に笑顔を絶やさず円満に事を成就、異彩を放ちました。昭和四年には、埼玉県酒造組合比企支部長に就任、昭和七年には埼玉県醤油醸造組合長に就任します。その後は、同顧問に推挙され、斯界に甚大なる功績を残します。太一郎氏は謙虚かつ情義に厚く、人の為に尽力します。このため二十六歳の時には松山町々議会議員に当選。以来、町議を八期三十二年の長きに勤める傍ら、松山町消防組合頭や学務委員、商工会長、信用組合長等幾多の名誉職を歴任するなど、太一郎氏の功績は顕著でした。太一郎氏が三十三歳の時には、比企郡会議副議長に推挙され、三十六歳の時に埼玉県々会議員に当選、三期十三年の間、県政に参与し、県参事会員を兼務します。この間、地方の土木治水および交通や文化面、その他諸般の事業に尽力し、その功績を残します。松山より深谷・越生・田間宮(鴻巣市西部)の三道路の県道編入、熊谷県道の白坂の開墾、市ノ川改修事業などにも尽力します。 大正十二年の東上線武州松山駅(現東松山駅)の招致のために、太一郎氏は自らの土地を提供したことや県立第五中学校(現県立松山中学校)の新設に貢献したことは、深く人々の心に刻まれています。太一郎氏は、敬神崇祖の念が厚く、箭弓稲荷神社の奉仕・志力・事績にも心血を注ぎます。県社への昇格、本殿玉垣の造営、付属遊園地の拡充整備、皇太子殿下御生誕奉祝、記念館の建設等に功績を残します。太一郎氏の数々の功績に対し、埼玉県神職氏子総代会比企郡支部長、比企郡氏子総代会々頭に推挙され、埼玉県神職会および全国神職会長より表彰されます。公益を第一義に捉える氏を称して、経世済民、奔走衆望の人物と評されるに至り、その傍ら子弟を育て、家業に励み、家風隆盛を実現します。 太一郎氏は、六十八歳で福禄寿、子孫繁栄を果たし、一門の隆昌を確固たるものとし、善行を積み重ねた結果として家慶を引き寄せました。(福禄寿とは、幸福、封禄、長寿の三徳のこと)ここに、有志一同、太一郎氏の顕彰碑を建立して、太一郎氏の徳を後世に伝えるものです。小生に記念文を委嘱されましたので、当時の県立第五中学校に職を奉じた太一郎氏の恩顧に対し、町民の支援を得て碑文を撰した次第です。

昭和二十一年十一月 上浣(月の始め) 埼玉県粕壁中学校 山本洋一撰 春川嘉一書